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亀井淳訃報のお知らせ
亀井淳氏は2009年5月10日、肺ガンのため逝去致しました。享年74歳。
当サイトは、これまで運営していた本人の亀井淳氏より、ご遺族の同意を得て、中村が引き継いで、運営していくこととなりました。
今後は、このサイトの情報をアーカイブとして残していくことといたします。
亀井氏が遺したジャーナリズムの礎石を閲覧出来るようにいたします。
2009年5月 中村
亀井淳絶筆
週刊新潮「朝日襲撃犯」スクープ誤報

「ジャーナリスト」09年4月号から転載します。


 週刊新潮「朝日襲撃犯」スクープ誤報
 根底に「裏付け取材否定」の姿勢
 危惧される“週刊誌無用論”の台頭

               
朝日新聞阪神支局殺傷事件。「私が襲撃した」と実名手記を週刊新潮に4回掲載した男性が、一転その事実を否定。新潮側も「こうして『ニセ実行犯』に騙された」と編集長が10ページの手記を発表するなどドンデン返しの連続だった。

 誤報事件は各メディアに少なくない。天声人語によると08年以後、週刊新潮だけで名誉棄損敗訴は10回で、計3000万円の賠償を命じられている。しかし裁判ならばその過程で双方のやり取りがあり、負けた方にもそれなりの言い分が残る場合がある。

 週刊新潮はなぜ、これほどの醜態に陥ったのか。それは、週刊新潮の生い立ちと54間年に及ぶ発展のありように根源がある。同誌の生みの親で育ての親は当時からワンマンとして知られた雑誌編集担当の斎藤十一重役だ(写真週刊誌フォーカスも同じ)。
 

斎藤は2000年死去するまで「齋藤天皇」といわれたが、その下でもむろん誤報や報道トラブルは多々あった。が、齋藤は決して責任をとろうとしないどころか、賠償金は「必要経費」と開き直っていたのである。

新潮編集長の手記には「週刊誌の使命には、真偽がはっきりしない段階にある『事象』や『疑惑』にまで踏み込んで報道することことにある」と断定的に述べている。誰かが何か言った、中身を検証しなくても、言ったという事実を報道するのは正しいという立場で、これは裏付け取材の否定であり、週刊誌全体を馬鹿にした態度だ。

 今回、対新潮批判で朝日のトーンが異様に高いと評する人もいる。

 だが、考えてもみよう。阪神支局の記者たちは一日の仕事を終え、スキ焼きの夕食を済ませてソファでくつろいでいた。そこに銃を持った何者かが飛び込み発砲した。

 血にまみれて絶命した若い記者の無念を思えば、そんな事件に便乗し、かつ相当の金銭や便宜の供与をやり取りした「ニセ実行犯」と新潮の関係を見つめる朝日同僚たちの怒りがいかに強くても、それは人間的に理解できることではないのだろうか。 

今後、週刊新潮撲滅論とか週刊誌無用論が出てくるかもしれない。だが、これだけの失態でもメディアをつぶす論議は好ましくない、

 編集長手記には重大な誤報が生まれた構造や深層への言及はないが、同社社員らの努力で明らかにし、新しい週刊誌の時代を模索すべきだろう。
亀井淳

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更新日更新内容
2009/7/2 高文研顧問 梅田正己氏の追悼文を掲載。
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2007/10/16 書評「改憲」の系譜 /9条と日米同盟の現場 (雑記帳)を更新。new
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8・15、「戦後レジーム」とは (雑記帳)を更新。new
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2007/7/27 JCJ 市民とジャーナリストを結ぶ8月集会 (イベント情報)を更新。new

隅井孝雄さんによる追悼の言葉
亀井淳さんのご冥福をお祈りします。

亀井さんは週刊新潮編集部におられたころから存じ上げていました。

私はテレビが電気紙芝居からようやくマスメディアに向かって歩み始めようとしていた1958年に日本テレビに入りました。週刊新潮はその2年前1956年創刊、マスメディア時代の旗手としてすでに存在感を示していました。

記事の目玉として毎週一ぺ一ジのテレビ欄を設けて評判となりました。私はテレビの編成局で新聞や雑誌の取材に対応していたので、先輩格の亀井さんを知りました。当時の週刊新潮の記者は時代の最先端でさっそうとしていました。

亀井さんもその一人でした。

日本のマスメディアの興隆期という同じ時期に、その真っただ中にいたという意味で私は亀井さんと青春を共有したといえるでしょう。

私が民放労連の副委員長として春闘共闘委員会の国民春闘に関与した頃、つまり1970年代半ば、週刊新潮の右傾化が始まり、労働者の戦いを理由なく敵視するような記事がしばしば登場しました。そこで私たちは公正な報道を求めて新潮編集部を訪れたことがあります。交渉の席の向こう側に亀井淳さんの姿がありました。

その後亀井さんが編集姿勢の飽き足らず、新潮を去ったと風の便りに伺いました。

再び亀井さんとお目にかかることになったのは、それから四分の一世紀後、私がニューヨークから帰国し、JCJの代表委員になった2001年以降のことです。

沈着で、分析的で、思慮深い亀井さんは今日のJCJの支えでした。

謹んでお悔やみ申し上げます。
2009年5月13日、京都にて、隅井孝雄
橋本 進さんの弔辞
弔辞
 亀井さん、こんなに早くお別れの言葉をのべることになろうとは、夢にも思いませんでした。日本とジャーナリズムの現状を見すえ、未来への展望を拓こうとする日本ジャーナリスト会議の運動の中で、これからもずっとごいっしょに進んでいけると思っていたので、突然のご逝去は残念でなりません。

 亀井さん、あなたはすぐれたジャーナリストでありましたが、同時にすぐれたジャーナリスト運動家でもありました。

 一九七八年、新潮社を退社され、以後、文筆活動に入り、著書『「週刊新潮」の内幕』(83年)、『写真週刊誌の犯罪』(87年)等でマスコミ・ジャーナリズム研究、評論家として出発されました。この頃から、JCJ出版部会との交流が始まり、八八年、『ドキュメント三宅島』でJCJ賞奨励賞を受賞されました。JCJ会員となり、JCJにとってなくてはならない存在になりました。受賞作は、NLP基地建設に反対する、三宅島島民の「いのちと、ふるさとと、自然を守るたたかい」を描くものでした。素朴で大らかな島民が、どのようにして基地反対の意志を固めるようになったか、権力がどのように乱暴な攻撃を加えたかがつぶさに描かれています。このすぐれたドキュメントは、長期にわたり、島民の間に分け入り、喜怒哀楽を共有した取材の成果でした。三宅島村長は「亀井さんは村民だ」と言いました。

 島民、すなわち民衆の中に身を置き、その視点から現実をえぐっていくという手法が、ジャーナリスト亀井の土台であったように思います。三宅島島民の立場に立つ姿勢は、そのまま沖縄県民の立場に立つ姿勢につながっていきました。太平洋戦争下、本土決戦のための捨て石とされ、戦後は日米軍事同盟体制の踏み石とされている沖縄は、ジャーナリスト亀井の生涯をかけるテーマであったように思われます。ことあるごとに沖縄に足を運び、その現実を発信されました。

 そして沖縄をめぐり、ジャーナリスト運動家としての側面が折に触れて発揮されました。二〇〇〇年の沖縄サミットを前にして「JCJアクション沖縄取材ツアー」が催されました(同年5月27〜29日)。参加者は50名を越し、私も参加者の一人でしたが、沖縄問題のすべてを凝縮して体験させるような、感動的な旅でした、企画・提案は亀井さんでしたが、細部まで目配りし、現地との交渉・連絡に当たりました。実際の旅では、総括幹事として訪問団をまとめられました。その奮闘ぶりは今も語り草です。

 だから、亀井さんはJCJ企画委員会の重要なメンバーでした。JCJの大きな仕事として、毎年のJCJ賞選考・授賞があります。多数寄せられるマスコミ各分野の作品を吟味し、優れたものを選考委員会に提示する、推せん委員会の柱となって下さいました。JCJ賞の社会的権威は年ごとに重さを加えてきました。それに伴って応募作品は増える一方です。推せん委員会の人々は、年明け早々から、様々の作品吟味に取りかからねばなりません。困難な情勢下での優れた作品を見いだし、良心的なジャーナリストをはげます大事な仕事です。見落としがあってはならず、評価が誤ってはなりません。その点において、亀井さんは、その取材方法と同じく、広い目くばりと綿密な読み込みをされました。小出版社や小プロダクションの仕事を見逃さず、小さな映画館にも足を運んだ亀井さんの姿は、同じ推せん委員の記憶に残っています。

 06年から、さらに代表委員の任を引き受けて下さり、その活動はいっそう幅広いものになりました。

 亀井さんには『遠い潮の香−記憶の中の戦跡』(06年)という作品があります。太平洋戦争下、亀井さんが学童であった頃、米子での疎開生活から空爆下の東京へ戻る敗戦前後の体験記です。

 挿入されたしおりには、「自らを問い詰め、自らの中に時代形成の因子を探るのは、抵抗の起点になりうるのではないか」という言葉があります。そうして、本書を第一部とし、青年期とジャーナリズムを第二部、第三部とつづける構想が語られています。「抵抗の起点」という言葉が示すように、亀井さんは、戦争と民衆の生活、精神の軌跡をたどることによって、再び戦争への道を歩まない、平和で心豊かな日本への手がかりを示そうと考えていたのです。 ここで個人的な感懐を述べることをお許し下さい。私の兄は慶應の普通部や高校の国語教師を一生の仕事としました。学徒兵としての体験から、骨の髄までの反軍国主義者になりました。日本国憲法、教育基本法の心酔者になりました。だから、教え子の中から、反戦平和の人が育つと、それを誇りとし、喜びとしました。亀井さんは、兄の自慢の教え子の筆頭格でした。亀井さんにも、そうした兄のふるまいは印象深かったようで、『遠い潮の香』刊行以後、兄を取材されていました。だから、私は第二部を待ち遠しく思っていたのです。戦争体験は、反戦の志は、どのようにして先生から生徒へ、先輩から後輩へ受け継がれ、指定共同してどのように問題を深めていったかが、生き生きと描かれるであろうと楽しみにしていたのです。残念ながら、その期待は実現しませんでした。

 だが、亀井さんがめざしたもの、胸に固く抱いた志は、私たち、日本ジャーナリスト会議の仲間たちの中に生きています。おだやかで、誠実そのものであったお人柄と、その業跡、足どりをみつめながら、私たちは前進をつづけたい、と思っています。

 亀井さん、本当にありがとうございました。私たちの心は、あなたから離れることはありません。



 二〇〇九年五月一三日
日本ジャーナリスト会議  橋本 進
週刊誌批判、ジャーナリスト会議、そして沖縄
――亀井 淳さんを偲ぶ
高文研顧問 梅田 正己

 亀井さんとの20余年の交友を振り返ると、三題噺ではないが、上の三つのことが胸に浮かんでくる。そしてこの三つは、つながり、重なり合っている。
 初めての出会いは、写真週刊誌批判だった。
 1985、6年当時、写真週刊誌の盗撮による人権侵害が猛威をふるっていた。ビートたけしが、そのまんま東(現宮崎県知事)以下のたけし軍団をひきいて深夜、講談社『フライデー』編集部に殴り込んだのが86年12月である。
 長く『週刊新潮』編集部に勤務したあとフリーランスのライターになった亀井さんは、自身の経験をもとに、週刊誌に対する内在的な批判を展開していた。その亀井さんに、写真週刊誌批判一冊の書き下ろしを依頼したのである。
 執筆は順調にすすみ、翌87年5月、『写真週刊誌の犯罪』として出版した。
 
 それからまもない頃だったと思う。当時、亀井さんが専任講師をつとめていたジャーナリスト専門学校の、高田の馬場駅近くの校舎の一室で開かれた亀井さん主催の会に参加した。亀井さんはペンでの批判活動のほか、「ジャーナリズムを考える会」(だったと思う)を主催し、その運動化をはかっていたのである。
 一方、私も、80年代初めに仲間と日本ジャーナリスト会議の出版部会を結成、会員拡大につとめていた。その出版部会の例会で、亀井さんに出版週刊誌についての講演を依頼するため、小学館のYさん、講談社のMさんといっしょにジャナ専での亀井さんの会に出かけていったのである。
 このことが機縁となって、亀井さんも日本ジャーナリスト会議に加入された(後に共同代表となる)。
 
 ジャーナリスト会議に加わった亀井さんは、ほどなくその有力メンバーとなる。
 とくに晩年は、ジャーナリスト会議賞選定の大黒柱となって活躍した。
 この賞の選定は、ジャーナリスト会議の年間最大の行事で、過去1年間の新聞、放送、出版活動の中から最優秀の作品を選び、8月15日の直前に贈呈式をおこなう。
 なにしろジャーナリズム活動全般の中から最優秀作を選ぶのだから、大変な労力とエネルギーを要する。その推薦委員会を統率する委員長の役職を、亀井さんは何年にもわたって引き受けたのである。
 応募は自薦、他薦があるが、新聞ではほとんどが自薦である。そのうち沖縄タイムスと琉球新報は常連の応募社となった。長大な連載記事を綴じた応募作品が締め切り間際に送られてきて、「梅田さん、悪い、3日間でこれ読んできて」と亀井さんに頼まれたこともあった。
 
 『写真週刊誌の犯罪』の出版は1987年だったが、その翌88年に、亀井さんは『ドキュメント三宅島』を大月書店から出版する。亀井さんの文章と森住卓さんの写真を組み合わせたものだった。
 当時、米軍空母艦載機の夜間着陸訓練(NLP)を三宅島で行うという日米両政府の計画が発表され、それに対する島をあげての反対運動が展開されていた。その運動を、亀井さんは週刊誌批判を行いながら、何度も三宅島にかよって取材していたのである。
 その一定の成果を『ドキュメント』にまとめたあと、亀井さんは沖縄へ行こうと考えた。三宅島で日米安保体制の現実を見せつけられた亀井さんの胸に、反戦・反基地闘争のいわばメッカともいえる沖縄にぜひとも行かねば、という思いが湧き上がってきたのだろう。
 その亀井さんを、88年か89年か定かではないが、私が沖縄に案内した。
 
 当時、高文研は沖縄大学と共催で毎年夏、「沖縄セミナー」を開いていた。
 セミナーといっても、沖縄戦の戦跡と広大な米軍基地を自分の目で見てまわるフィールドワークである。そのセミナーに、私が亀井さんを案内したのである。
 その初日、沖縄大学の大教室で講師の話を聞いたあと、夕刻、ホテル近くにみんなで戻ってきた私は、亀井さんが無帽なのに気が付いた。私と同様、年齢に応じて、亀井さんの頭髪からは防御機能がかなり失われている。
 「亀井さん、沖縄の夏は帽子なしでは歩けませんよ」
 そう言って、二人でスーパーに入ったことを覚えている。
 
 その後、亀井さんは単独の取材で、また勤務先のジャナ専の生徒を引率しての沖縄案内で、しばしば沖縄へ出かけた。私が石川真生さんの写真集の仕事で沖縄に出かけた際、那覇で亀井さんとばったり出会い、真生さんの赤い車に同乗して辺野古をへて名護市内までいっしょに行ったこともあった。名護で市民投票がとりくまれていたころである。
 亀井さんの沖縄での人脈は私などよりもずっと広がり、沖縄を見る眼も深まっていった。
 1998年、伊江島の「ヌチドゥタカラノ家」に保存されている阿波根昌鴻さんの「乞食行進」ほかの貴重な写真を再刊する企画が高文研に持ち込まれた。歴史的な写真だから、本にするには、戦後沖縄の歩みと阿波根さんたちのたたかいをたどった文章を付ける必要がある。
 その文章の書き手として、すぐに思ったのが亀井さんだった。
 その本『反戦と非暴力――阿波根昌鴻の闘い』は1999年に出版した。
 
 亀井さんの沖縄へのスタンスは、反戦・反基地の立場に立つことは当然として、同時に事態を冷静に観察するジャーナリストの眼をもっていたことが特筆される。その熱い思いを秘めたジャーナリストのペンで、沖縄をめぐる状況が本土の読者に伝えられた。
 週刊誌できたえられたその文章は、簡潔で切れ味がよく、ワサビがきいていた。私も、文章を書くさい、意識の隅にいつも亀井さんの文章があった。
 亀井さんは出しゃばりではなかったが、振られた役割はたんたんと、しかし過不足なくこなした。世話になった人は少なくないはずだ。
 この7月、高文研では、新刊『沖縄「自立」への道を求めて』を出版する。宮里正玄・新崎盛暉・我部政明編著で、基地問題を中心に経済、環境、自治問題について沖縄の行動的知識人14人が本音をぶつけた論集だ。
 この本が出来たら、だれよりも亀井さんに読んでもらい、意見を聞きたいと思っていた。
 が、今となっては、もうその願いはかなわない。
2009年7月2日
遠い潮の香またまた弁解ですが、長らくこのホームページをおろそかにしていました。
 生きてそれなりの活動をしてはいるつもりなのですが、やはり老境ゆえ、体力気力がパソコンの指操作に結びつかないことがしばしばある、それが続いて…というのが実態なのです。
 しかし、政治を含めた環境はますます悪くなり、愚劣さはその度合いを増しています。及ばずながら、ものを申して置かなければ…という気持ちに駆られます。
 『「遠近法」日録』を中心に、必ずしも毎日とは行かなくても、思いの丈を綴ってまいりたいと炎暑の中で思い改めました。

 昨年の9月に出した本がまだ生きていて、関連する注文や問い合わせ、講演などが少しずつ続いています。本はまだ在庫がありますので、以下の自己宣伝を掲載しておきます。

 『遠い潮の香−記憶の中の戦跡』という本です。なにを書いたのかというと、昭和19(1944)年から敗戦の20(1945)年の「疎開」を中心に、幼少時(「国民学校」4年から5年生の頃の頃の私自身と私の家族の経験をつづった実録の自費出版です。
 ああまた戦争回顧ものか、と思われるかもしれません。確かにそういう面もありますが、実は新しい問題提起のつもりなのです。どういう問題提起なのか…それはここでタネ明かしはせず、本を読んでいただきたい。
 すでに読んだ方々から多くのさまざまな感想や意見を頂いています。この続刊を書きたのですが、遅々たる歩みです。

 『遠い潮の香』を入手ご希望の方は、『遠い潮の香』ページからどうぞ。

2007年8月 亀井淳
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